月の匂いの舟を浮かべる

f:id:neeey:20211030121917j:imagephoto by アベハルカ

 

すなばさんの本が出ると、そしてそのタイトルが『さよならシティボーイ』だと聞いたとき、まだ読んでもいないのに「傑作なんだろうな」とわかった。その直感は、読み終えた今もまったく変わっていない。むしろ想像はかんたんに上回って、それにすら「でしょうね」と思ってしまうくらい。おもしろくないわけがないじゃん。すなばさんの本だよ。

 


すなばさんて誰やねんと思う人はこちらを見てください。たぶんそんなにいないと思うけど。

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『さよならシティボーイ』で一番好きだったのは、なんて野暮なまとめかたはできないけど、わたしはすなばさんの文章の間合いのとりかたと、比喩の使い方が最高に好き。品があってハイセンスで、でも気取っていなくて、そのことを読者に悟らせない。「物事の見方が」とか「日常の切り取り方が」とかじゃなくて(もちろんそれもあるんだけど)、シンプルな言葉だけで情景をつたえる力があるのだ。


ブログ公開時から好きだった「メジロを拾った日」を読んで、むかし飼っていた手乗りの文鳥のことを思い出した。ちいさくてあたたかかったそのこが、チュンと手のひらにおさまるときのやわらかい重さのこと。なまぬるい温度のこと。そのこが動かなくなってしまったとき、人生ではじめて死について考えた。人の記憶は匂いや音楽におさめられがちだというけれど、触感にだって残されている。でも、一度うしなってしまえば二度と同じものにさわることができないから、きっと思い出すきっかけさえないまま、ぼんやりと忘れていくんだと思う。本当だったら閉じ込められたままだった記憶を、そっと開けてくれたのがすなばさんの文章だった。

全く動かないことを除けば生きていてもおかしくないほど美しい肢体だった。そうでなければ、こんなことをしようとは思わなかったかもしれない。僕は横たわるメジロに手を差し出し、そっとすくい上げた。(中略)それでも手はあらゆる力をかき分けてついにメジロの体へと達し、親指がその喉元にそっと回り込んで一羽の小鳥を持ち上げた。

右手に触れた羽毛はあまりに柔らかく、薄い皮膚やその下の弾む筋肉、精緻に詰め込まれた小さな内臓、また細く硬い骨の抵抗まで、その生き物を作るあらゆる感触が、右手を通して僕の中になだれ込んできた。(「メジロを拾った日』より)

かつて飼っていた文鳥のあたたかさを思い出しながら、言葉の持つ力を思った。言葉があるからわたしたちは自分の考えや思いを伝えることができるけれど、言葉があるから伝えきれない感情にもどかしくなる。だって、わたしの「うれしい」とだれかの「うれしい」は違うでしょう。わたしの「かなしい」とあなたの「かなしい」は違うでしょう。その4文字のなかに収まりきれずにこぼれた感情をなんと呼べばいいのか、大人になった今もちっともわからない。

 

『さよならシティボーイ』には、すなばさんの日常が、生活が、その端々で感じた彼自身の感情が、じっくり丁寧に描かれている。エッセイ集と謳われているし、もちろん内容もたしかにそのとおりなのだけど、わたしの思うエッセイと、すなばさんのそれはすこし違う。

 

夜は朝の水平線に向かって流れていく。流れながら、実体のある今は瞬間ごとに、過去の影絵に変わっていく。背後に連なるその幻燈が(中にはずっと後ろにいるものたちが)、ふいに光の靄を吐いて自分の胸をつかまえる。それが眠れない夜に起きていることだ。(「眠る前の話」)

 

僕が自分自身のことをよく川の流れの中にいる小さな生き物として喩えるのは、時としてこういう奇跡的な一日もあることを知ってしまったからだ。時間が過ぎていくことに良いも悪いもなく、その流れを抵抗として感じるか、心地よい揺りかごとして感じるかは、ただ自分自身の姿勢のみに委ねられている。「生きることが上手な人」がもしいるとすれば、その姿勢の制御が上手いのだろう。(「大丈夫になった日」より)

 

すなばさんの文章は、どこまでも文学なのだ。彼の文章を読んだ人には共感してもらえると思うのだけど、さらりと書いたであろう一文にさえ奥行きがある。すなばさんは、Twitterの短い投稿にも、LINEやメッセージのたったひと言の返信にも、絶対に句読点を忘れない(本人に確認したことはないけど、少なくともわたしの認識ではそう。だから、よくサスペンス映画であるような「誘拐した相手に成り代わってアリバイ工作のためにSNSを投稿する」なんてことがあっても、すなばさんの偽物なら気がつける自信がある)。

 

すなばさんは、文章において中途半端な妥協をしない。それとなくわかりやすい言葉で完結させない。たぶん、耳障りのいいたとえで終わらせようなんて思いもしていないんだと思う。つきつめて削ぎ落とされた言葉がならぶとそれは文学になるのだと、すなばさんの文章を読むたびに気づかされる。


わたしはそれを、すごくいいなと思う。なんていうか、すごく愛があるよなあと。言葉のひとつひとつに平等に敬意を払っていて、そりゃ文章を書くでしょう、と納得せざるをえない。

 

人はどうしたってひとりきりで生きていて、たまに沸き起こるどうしようもない孤独をすべてはねのけることは、きっとできない。だけど、その孤独もぜんぶ受け入れて文章を編み出してくれる人がいる。それを読者として受け取ることができるのはとても幸福で、恵まれていると思う。その感謝をまだ言えていない気がするのでひとまずここで先に伝えておく。

書いてくれて、読ませてくれてありがとうございました。何度も繰り返し読みます。わたしも大丈夫になる日とそうじゃない日を繰り返しながら、それでも生きようと思いました。

 

『さよならシティボーイ』の感想というよりすなばさんに向けた個人的な手紙みたいになってしまった気がしなくもなくもないけど、たぶん読んだ人はみんなすなばさんを身近に感じると思うから、まあよしということにする。

 

さよなら、シティボーイ。

その歴史の節目にすこしでも立ち会えたことに、たくさんの感謝と愛をこめて。

 

 

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最後かもしれない夜のおしまいに月の匂いの舟を浮かべる