8月17日

817日が忘れられない日になってから5年が過ぎて、あのころ19歳だったわたしも5年分年をとった。

ぬるい風に吹かれて降りたかつての最寄駅は、ミスドが改装された以外それほど変わっていなかった。中学生か高校生かわからない集団がたむろするコンビニの前を横切り、冷房の効き過ぎたスーパーで大ぶりの桃を買う。乗ろうと思ったバスはお盆ダイヤでまだ来なくて、繁盛はしていないけれど寂びれてもいない商店街を抜け、ひとつ先のバス停まで歩いた。

 

5年かあ。じんわりにじんだ汗が首筋をつたう。腕に掛けた桃の袋はずっしりしていて、腕にくっきりと痕を残した。


少し待ってからやってきたバスの乗客はまばらだった。後部座席に座って慣れ親しんだ景色が過ぎて行くのを窓越しに見ていた。


思うことは、今でもやっぱりある。そして、薄れたことも同じくらいに。

 

桃はよく熟れていておいしかった。少し話して、線香をあげさせてもらったあと、行きと反対方面のバスに乗って帰った。

 

わたし、今年で25歳になるんだよ。
あのとき、5年後を想像することはできなかった。まっすぐ悲しむこともできないくらい打ちひしがれて、どうしたらいいのかわからなかった。
でも今日はね、ここに来る前会ってきた人たちがいるんだよ。8月17日でも、ちゃんと本当に笑えるようになった。ものすごくうれしいし、うれしいと思えることもうれしい。


1年に一度だけ、悲しい顔をしてもいい日を作ったつもりだった。彼女のことを思い出して、手を合わせられるように。だけど。

 

悲しいときに悲しいと言うことも、苦しいときに苦しいと言うことも下手くそなままだけど、大丈夫になったこともたくさんある。

 

 

電車は空いていた。19時を過ぎるころあたりはもう暗くなっていて、「真夏のピークはもう去ったんだよ」と今日会った人が教えてくれたことを思い出した。

 

腕についていた桃の袋の痕は、もうあとかたもない。 

 

 

 

大丈夫、大丈夫だよ あの夏を越えられなくても大丈夫だよ

 

 

まどろんで正午

新作のケーキをつくったから、と父から連絡があった2日後、クール便でチーズケーキとチョコレートケーキ、そして新作のチョコミントケーキが送られてきた。ぜんぶで15個ちかく。いくら一人暮らしではないと言えふたりだ。日持ちするにしてもひとりあたり6、7個分のケーキはなかなかシビアだし、保冷バッグがなかったので会社に持っていくのもなんとなく気が引けた。

大学を卒業してからゆるやかに太り続けている娘のことを考えてほしい。だいすきだから食べちゃうに決まってるでしょ、もう。でもありがとう、うれしかった。

 


そんなわけで、ここ数日朝はパンの代わりにケーキを食べている。

「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」を地でやる日がくるとは思わなかった。ほんとうにここまでまっさらな気持ちでこの台詞が言えるのは今だけなような気がするので、ここぞとばかりに言いまくっては貴族の気持ちを味わっている。マリーアントワネット、来世で友だちになろうね。

 


あっという間に8月になった。

飽き飽きするほどつづいた雨の日が終わって、突然真夏ど真ん中の天気。気温の暴力にさっそく負けてヘロヘロになっている。お〜〜い夏〜〜〜。本気出しすぎじゃないかい。麦茶の減るスピードがすさまじい。

 


溺れないように平日を泳ぎきり、休日で一生懸命息継ぎをしている。8月はどうやら怒涛のスケジュールになりそうで、わたしの夏休みは9月までお預けになった。

 


久しぶりに時間がたっぷりとれたので、ぐるりと部屋の掃除をして、溜まりに溜まった洗濯物を干した。一息ついたところでこれまた撮り溜めていたドラマを消費する。


どの季節だっておなじ回数生きてきたはずなのに、夏だけやたらと小学生のころのように過ごしたくなるのはなんでだろう。

 


早起きしてラジオ体操に行った。午前中に宿題をして、お昼にそうめんを食べた。実家の庭に出していたプール。足を冷やしながらスイカを食べた。公園に行けば友だちがいて、夏のあいだは17時じゃなくて18時の鐘が鳴るまで遊んでもよかった。


いちいち感傷に浸ってしまうのも、夏のせいにしていいのだろうか。

あのころから変わってしまったことは確かにあって、その変化を静かに受け入れながら扇風機に吹かれている。

 


伸びかけの髪の毛がうっとうしくて、かきあげればどうしようもなく夏だと思った。

 

 

 

 

後悔をリグレットって言ってみるたぶんきれいな色をしている

 

 

 

吹きぬけの天井

夏のはじまりは、いつもどこか懐かしい気持ちになる。
太陽がいよいよ本格的に照り出して、青空はあざやかに際立つ。近くに見えるようで遠くにいる雲をいつまでも眺めていたくて、目的地を決めずにガラガラの京成線に乗るのがすきだった。ふたりで。

 

夏の模範解答のような天気の下で泣けなかったあのころのことを、繰り返し思い出す。
うしなったことを認められなかった。もう会えないことが信じられなかった。やさしい言葉をかけられるたびに丁寧に傷ついて、向けられる好奇の目をぜったいにゆるさないと思った。悲しんでいるそぶりを見せれば満足ですか。涙を流せば正解ですか。どうしてそんな簡単に、大丈夫って聞けるんだよ。みんなうるさかった。

 

いま思えば、あのころのわたしは消えかけのくせに手のつけられられない火の玉みたいだった。どうしちゃったの、らしくないよ。あなただったらそう言って笑ったかな。しゃんとしなさいと怒ったかな。答えは二度と聞けないから、ずっとわからないままだけど。

 

5度目の夏だよ。インターホンを鳴らしたあとの暗号、まだ覚えてる?

 

 

 

いつも

酔ったとき、眠れないとき、ふと思い出したように連絡がくる。寝るまで切らんで、という声はもうほとんどねむっていて、わたしはうつぶせのまま目を閉じる。(切らんでって言うけど、わたしたちそもそも繋がったことがないから切るものなんて最初からないよ。)ふたりともバカで笑える。一見繋がっているようで、ほんとうは重なってすらいなくて、進展も後退もない。ちゃんとせんとな、そうだね、のやりとりはもう意味がないと知りながら、何度も同じ言葉を繰り返した。無効だと分かっている約束ほどむなしいものはないのにね。割れたスマホの液晶画面をなぞれば、4年前はきのうのことみたいだった。この傷をつけたのはわたしで、そのヒビを広げたのもわたし。それを隣で見ていた人に何をしてほしかったんだろう。わたしが寝るまでそばにいてくれたことなんてなかった。秒針の音は、いつもすこしだけ優しくない。

記録3:33

ほどほどに酔って帰宅した昨日、ベッドにたどり着く前に眠ってしまった。

 

あんまり幸せで、「夢じゃないよね」とほっぺたをつねったら本当に夢だった、なんて嘘みたいな夢を見た。すさまじい幸せの高低差より、できすぎた「嘘みたいな夢」の衝撃(本当にこんなことある?ほっぺつねって起きるとか現実世界で起こるものだと思わなかった、マジで)が大きくて二度寝できないほど目が冴えてしまった。いや、え、ほんとに? 夢だったの今の? 脳内エンターテイメント担当が優秀すぎる。

起き上がろうとして、右腕が変にしびれていることに気がつく。二の腕にくっきりと畳のあと。眼球を動かすと乾いたコンタクトがぐるりと引っ張られて、泣いたのは夢の中だけだったのか、とすこし寂しくなった。
うれしくて泣いて、それでほっぺをつねったんだけど。そうかあ、夢だったかあ。

いつもならすぐ輪郭をなくしてしまう夢が、しっかりと記憶に残っていた。しびれた右腕を伸ばしてスマホのメモアプリをひらく。覚えていることを順番に書き留めれば書き留めるほど現実として破綻していることがありありとわかってしまったけれど、フリック入力する指が止まらなかった。


ふと時計を見ると3:33だった。なんとなくうれしくなる。5:55とか12:34とか、意図せず目撃した数字のゴロがいいと得した気持ちになるのはなんでだろう。

ゆるゆるシャワーを浴びて、今度はちゃんとベッドに寝転んでこれを書いている。あと何時間か経てばじわじわ明るくなって、最近の目覚まし代わりになっているアパート前の工事が始まるだろう(本当にうるさい。し、なかなか本格的に揺れる。震度3くらい)。

抱き枕の抱き心地が好き。だんだん睡魔が戻ってきた気がする。今寝たら

 


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ここまで書いて眠ったらしい。自由すぎるな、わたし。
予告通り工事の音で目が覚めて(やっぱりとてもうるさい)、アワアワ準備して出社したのが今朝。


さっきメモに書き残した夢の記録を見たら、もう内容はぼんやりとしか思い出せなかった。でも別に何も感じない。それがちょっぴり切なかった。

 

味のしなくなったガムを捨てる。梅雨、いつ明けるんですか。

 

 

 

神様はやっぱりいないコンタクトレンズの奥で雨を見ていた

 

 

さらざんまい三昧

アニメ「さらざんまい」が、先週最終回を迎えた。

はじめは全然観る気がなかった。ほのぼの系(絵柄判断)あんまり好まないのよね、くらいの気持ちでスルー(大バカ野郎だよわたしは!!!!)。幾原邦彦監督のことも全然知らなかった。
同じくノイタミナ枠だったその前の「約束のネバーランド」、さらにその前の「BANANA FISH」は目をらんらんとさせて観ていたのだけど、ふ〜ん次はちょっとお休みかな〜くらいに思っていた矢先、一緒にユーリオンアイスのオーケストラコンサートに行き、別冊マーガレットBANANA FISHの原画展をめぐった隠れオタクの友人から「さらざんまい、観ろとは言わないけど話したいから観ろ」と言われ視聴を開始した。

 

……。なんなんだコレ……………。

浅草に住む中学生の男子3人組がひょんなことからカッパになってゾンビを倒していく、というあらすじなんだけど(超簡単に言った)、とにかくもうしょっぱなから置いていかれ具合がすごくて大混乱。

カッパ型生命体?ハコ?尻子玉?えっなんで急に歌うの、ここはどこなの、お前らは何なの?

何をみているんだ……と呆然としているあいだに過ぎ去る30分。何これ。何だったの今の?
よくわからないというか、何もわからない。当初4話までストックがあったためとりあえず観ましょう、ととりあえず観ました。

気づいたら沼。正直意味わからないと思った1話からもう釘付けだったんだと思う。張り巡らされた伏線がすごくて、ツイッターでもいろんな考察が飛び交っていた。考察能力の乏しいわたしでさえ、話が進めば進むほど、わからない部分は残るもののキャラクターたちの関係性や内情が見えてきてどきどきした。木曜日は、さらざんまいをリアルタイムで視聴するためにぜったい帰宅してテレビの前で正座していた。冷静に考えるとヤバイな。いやもちろんいたって大真面目でしたけれども。

とくにやられた、と思ったのはSNSとの連動性。放送が始まる前の期間にキャラクターが更新していた設定の公式ツイッターアカウントがあったのだけど、放送中は一度も動いていなかったのに、物語中(第10話。佳境です)でそのキャラクターたちの存在が危ぶまれたときリアルタイムでセリフがつぶやかれ(号泣)、存在がなくなったとき今までのツイートがぜんぶ消えたのだ(大号泣)。キャラクターのイラストだったはずのアイコンも真っ暗になって、目の前も真っ暗になった。うそやん、さっきまで、さっきまでのツイートは???どこに行ってしまったの???夢ならばどれほどよかったでしょう……。


さらざんまいは、「つながり」をテーマにしたアニメだった。
つながりの縁(円)から外れてしまったら、存在自体がなかったことになる。ツイッターアカウントが消えてしまったキャラクターは、物語の中でまさにその縁からはじかれてしまった。その瞬間にSNSからも消えた。心底ぞっとした。なんてこった、お話の中だけだと思っていたのに。いやお話の中だけであることはそうなんだけど、いきなり自分の身に降りかかったできごとのように感じてしまった。ツイッターのTLは阿鼻叫喚だった。たまらない喪失感。

そんな10話を乗り越えての最終回は清々しかった(全11話でした)。
ありがとう、ありがとうさらざんまい、と手を合わせて今までの彼らの生き様を振り返る。11話によくまとめたな、と思うほど濃厚なストーリーだった。


さらざんまいについての考察や感想を調べれば調べるほど、「イクニ(幾原邦彦監督の愛称)の作品をさらざんまいで知った人、『輪るピングドラム』も観たほうがいい」「輪るピングドラムユリ熊嵐ときてさらざんまいか……」「もっかいピンドラ観たくなったな〜〜、ユリ熊も」という幾原監督の過去の作品とさらざんまいの関連性を述べるつぶやきをたくさん見た。めっちゃラブな友達、ちょいも好きなアニメは輪るピングドラムだと言っていた。
はじめにも言ったように幾原監督を全然知らなかったので、これは観なければいけないのでは???とNetflix内を検索。見事ヒット、センキュ〜ネトフリ。

 

2日間で「輪るピングドラム」全25話を視聴。
何も言うまい。ただ愛について考える時間を過ごし、深呼吸し、しばしの休憩をした。眼球と心臓の筋トレ。ふう。愛とは。ちょいにライン。
さらに2日間で「ユリ熊嵐」全12話を完走。ちいさな瞬きを繰り返して、再び愛について考えた。

奥深すぎるだろう、イクニ。あなたはいったい。

 


明日で、さらざんまい最終回から一週間が経つ。

ちなみに昨夜から輪るピングドラムを見始めた友人は、今9話まで来たらしい。お互いのラインをツイッターだと思うようにしてから、更新頻度がものすごいです。